前の記事に続き大田区山王。
荒藺ヶ崎熊野神社の眼下にある日蓮宗の寺院善慶寺。

正応4年(1291)新井宿村住人・増田三郎右衛門の発願により、日法上人により開基された。
境内にある「新井宿義民六人衆供養塔」

山王の台地下にあたる大田区大森北一帯は、長らく湿地帯で、作物の収穫量が乏しかったことから「不入斗(いりやまず:升に入らないの意)」という村名だった。
延宝元年(1673)の旱魃、翌年の多摩川の氾濫による洪水や長雨などの天災が続いたにもかかわらず、領主木原氏は重税を課して農民を苦しめていた。
そもそも、この16年前に行われた検地により、田畑の作付け地のみならず畦道や入会地まで課税対象にされ、年貢高が倍になっていた。
これにより借金をしたり牛馬や田畑を取り上げられたりと村の困窮は甚だしかった。
そこで、名主や役付百姓らが19か条にわたる訴状を領主に提出して年貢減免を願い出たものの、にべもなく却下された。
百姓らはやむなく将軍・徳川家綱に直訴することと決め、その代表として酒井権左衛門、間宮太郎兵衛、間宮新五郎、鈴木大炊之助、平林十郎左衛門、酒井善四郎の六人が江戸に赴いた。
しかし、直訴する直前に密告によって馬喰町の武蔵屋という百姓宿で捕らえられ、延宝5年(1677)の正月11日に江戸の内神田にあった木原邸で全員が斬首された。
斬首のあった日、木原邸より村の百姓代である市兵衛のもとに使者が来て、運ぶものがあるから二頭の馬を連れて江戸屋敷へ来るようにと伝えた。
内神田にある江戸屋敷を訪ねてみると、無残な姿で中庭に放り出されている六人の死体があった。あまりにむごい仕打ちに、市兵衛は憤り「いっそ自分も一緒に切ってくれ」と言うが相手にされず、結局泣く泣く六人の遺骸を一人ずつ米俵につめ、赤と黒、二頭の馬にのせて村へ帰った。
六人衆の家族も、殺された者や家に火を放ち自害した者、村から逃亡する者など、悲惨な道を辿った。
六人衆は罪人として表向きは法事や墓の造立が禁じられたため、村でも引き取り手がなく、善慶寺の日応上人が遺骸を引きとるところとなり、延宝7年(1679)、親類の間宮藤八郎が両親の墓と称して六人の墓石を善慶寺の参道入口付近に造立し、その下に六人の遺骨を海苔甕に納めて密かに埋葬した。

この墓は正面に父母の名が書かれているものの、裏面には義民六人衆の法名が刻まれ、正面の水入れに水を注ぐと、くり抜かれた石の間から裏面にも水がめぐり、六人衆を供養できるように工夫されている。
昭和47年、寺院前の池上道の道路拡幅にともない発掘をしたところ、伝承通り海苔甕が出土した。

海苔甕と六人衆の遺体を運んだ馬が使ったと伝えられる飼葉桶が、善慶寺の本堂内に安置されている。
この事件に関する明確な史料というものは無いため、この伝承の内容がすべて史実かどうかは分からない。まあ、史料というものは大半が為政者側の作成した文書なので、この事件が幕閣の知れるところとなったら、お家取り潰しに繋がりかねないようなものは残さないだろう。
諸説あるものの、義民六人衆供養塔が建立されていることと、その下から伝承通り海苔甕が出土していることなどから、このような伝承が生まれる元となった事件はあったと考える方が自然だ。